数十年、自ら経営してきた会社を引退し、那賀町の実家を「山宿 花瀬庵」として改築、オープンなさった吉岡さんにお話をお聞きしました。どういう想いで、那賀町に戻られたのか?どうして「花瀬庵」を運営しようと思われたのか?そこには強い信念がありました。(取材年月 2021年7月)
吉岡 誠(よしおか まこと)
那賀町(旧相生町)に、父・晙次、母・雅子の第14代目跡取息子として生まれる。徳島県立農業高校林業科卒。明治大学文学部中退。昭和50年、丹生谷農業共済組合に就職。昭和52年、父の興した「サンシャイン徳島」太陽熱温水器販売・施工会社へ入社。昭和54年、「有限会社アズマヒーター四国」を羽ノ浦町(現・阿南市)に設立。平成9年、「株式会社アズマ四国」に。平成32年、アズマ四国を退任し、「山宿 花瀬庵」開業。好きなものは、音楽、アウトドア、お酒、船釣り、スキー。
――吉岡さんとは、数年前の法人会で出逢いましたね!そのときは、会社の名刺と「花瀬庵」の名刺をいただきました。阿南市で会社経営なさっていた方が、どうして故郷に帰り、宿を開かれたのか不思議でした。まず、そもそもどうして、那賀町に戻られたのでしょう?
60歳で、父が亡くなりました。今から40年近く前です。父は、そりゃもう大酒飲みで豪快で、凄かったんです。その父が亡くなり、母が一人になってしまったので、長男として、この家の面倒を見たいと思ったのがきっかけです。
――それまで、会社経営で忙しくなさっていたのに、いきなり帰ってくることに抵抗はありませんでしたか?
私が30代半ばで父が亡くなって、それ以来、仕事の合間を縫って那賀町に帰っては、ずっと農業の手伝いを母と供にしていました。土日も休みなく働いていたので、二重生活は大変でしたが、継続して帰ってきていたので、会社を退任して那賀町に戻ることに抵抗はありませんでしたね。
――お父様は、「地元の有名人」だったとお話をお伺いしています。そのお父様とのエピソードなどをお聞かせください。
父は、中学教師をしていたのですが、地元では、剣道と剛毅な性格で有名でした。その父の勧めで私も剣道を始め、高校は、剣道で有名な先生がいるところに進学しました。正直、農業や林業に興味があったわけではありませんでしたが、父が、剣道をするならその高校にいる先生に師事しろと・・・。とにかく、父の影響がかなり大きかったのです。
――その後、大学進学で東京に出られたわけですね。
父の影響が大きすぎて、徳島を離れたいと、東京の大学に進学しました。高校でお世話になった先生からの推薦も決まっていたのですが、大学は自分で決めました。その先生に対して申し訳ない気持ちは、今でもあります。
でも、いざ大学に行ってみると、学生紛争のまっただ中でした。とは言っても、田舎から出てきた私は、革命を夢見ているようでワクワクしたものでした。結局、大学にはほとんど行かず、5年間ぐらいアングラ芝居の役者をしていました。
――えっ!それは初耳です。
当時、小劇場ブームだったので、その影響を受けました。何年か役者をしたあと、夢破れて、とでも言いますか、親のことも気になって23歳ぐらいの時に、那賀町に戻りました。
――那賀町に戻られてから、どうなさったのでしょう?
地元の丹生谷農業共済組合に就職しました。その後、父が40代半ばで教師を辞めて、太陽熱温水器の販売施工会社を始めました。自分のやりたいことをしたいと言っていました。その父から、仕事を手伝って欲しいとお願いされたので、仕方なしに手伝いました。正直、父にはもう振り回されたくないと思っていたのですけどね。
――その会社でのエピソードなどを教えていただけますか?
「サンシャイン徳島」という社名でしたが、昭和60年までは、太陽熱温水器だけの仕事をしていました。「太陽熱温水器」を手がけた企業としては、徳島でもっとも早かったです。口が達者だった父は、営業の際、「販売」ではなく、ソーラーエネルギーの「普及活動」と言っていました。
そんな父ですが、お金に無頓着というか、自分からは代金を請求しないのです。なので、私が客先を回って集金していました。
――それは、すごい話ですね。でも、吉岡さんがお父様と同じご性格じゃなかったのが、良かったかも知れないですね。
その後、父は60歳で亡くなったので、私が父と一緒に仕事をしたのはわずか数年です。父は、病気になっても病院に行かず、花瀬の家を守ろうとしました。とにかくお酒が大好きで、晩年は毎晩一升飲んでいました。そのお酒で亡くなったようなものです。
人付き合いがすごく好きな人でして、接待が得意分野でした。そんな父が家を守ろうとしたので、私が稼いだお金は、2年ほど、石垣の整備や道づくりなど、ほとんど家の修繕に使いました。そのうちに、自分も、父が守ったこの家を受け継ぎたいと思うようになったというわけです。
――家を守るだけではなく、なぜ、「花瀬庵」を運営しようと思われたのでしょう?
私にとって、「花瀬庵」は、花瀬というこの地域を守る手段です。外から来たお客様に宿泊や飲食していただき、まず、花瀬を知っていただくことが大事だと思っています。
それに、家を維持するには、とにかくお金がかかります。宿屋をすれば、商売しながら修繕費を稼ぐことができます。
「花瀬庵」を始めるときに、5年ごとの第一、第二ステージ目標を決めました。第一ステージの目標は、家の修繕費を商売で賄うことでした。それは達成できたと思っています。今の段階は、第二ステージで、目標は、「花瀬庵」を法人化して、従業員をしっかり雇用し、次の世代に受け継ぐことです。
――それは、息子さんに後を継がせたいということでしょうか?
最終的にはそうですが、すぐにはというとなかなか・・・。いま、息子は、私から引き継いだ「アズマ四国」の代表をしていて、「花瀬庵」との両方の経営は無理だろうと思います。器用にこなせる人はいいかもですが、慎重派の息子には難しいかなあと。他人でもいいので、人格のしっかりした信頼できる方を番頭にして任せたいです。そのためには助走期間が必要で、じっくり人を見て育てていきたいと思っています。
――人を見ていらっしゃるということですね!吉岡さんは、いつも物静かですが、そういうお考えがあったとは、初めて知りました。
今、いろいろな形で人間関係ができつつあります。観光業は初めてですが、新しい出逢いや発見がいくつもあって、とても楽しいです。
――「花瀬庵」には、三味線奏者として、よく出演させていただきまして、ありがとうございます。「花瀬庵」から音楽を発信なさりたいとのお考えを、詳しくお聞かせください。
私が音楽を好きなのは、感情的で情緒的なものが好きなところから来ていると思います。理論立てて考えることも大事ですが、人間の本質や日本の良さは、情緒だと思っています。
商売をするには、もちろん利益を上げることが大事ですが、利益のみ重視ではなく、常に冷静なモノの見方をしないといけないと思います。それには、物事の表裏両面を見て判断していく。人間の真実はどこにあるのか、相手の本音はどうなのか、と。
音楽が身近にあると、そういった感覚が研ぎ澄まされていく気がします。それに、私は子供の頃から、音楽が好きでした。昔は、独学でギターを楽しんでいましたね。
――今のお仕事で大変なことは何でしょう?また、楽しいことは何でしょう?
大変なことは、人手が必要なことです。遊びでは、運営できないです。従業員をまとめるのも難しいですね。「花瀬庵」は小さな宿ですが、会社と一緒で組織作りが必要です。この年になっても、まだまだ勉強ですね。
楽しいことは、出逢いが多いことです。自分と似た考え方の方もいると知ったときは、自分を肯定された気がして、嬉しくなりました。逆に、いろいろな考えの方がいることを、知ることもできました。
施設を自分の手で作っていくのも楽しいです。手作りには達成感がありますね。もちろん、プロの大工さんに作っていただくのですが、ただ設計図を任せたらいいのではなく、自分の希望や要望を形にしてもらいます。
古いものを磨いて再生するのも好きです。なんでも新しいものを買えばいいのではなく。先祖や親が大事にしていたものを活かすと、愛着が沸きますよね。
――那賀町に住みたいという方に向けて、お伝えなさりたいことはございますか?
まず、那賀町がいかに素晴らしいかを声を大にして訴えたいです。
何が素晴らしいかと言うと、まず、住みやすさや穏やかな人間性です。「那賀奥の人は“丸い”」とよく言われますが、実際に人当たりがいいんです。ストレスにさらされにくい環境のせいかも知れません。
次に、手つかずの自然です。この豊かな自然が十分に観光化されていないのが、那賀町の魅力です。悪く言えば、お金儲けが下手なのですが、那賀町の自然は原石だと思います。磨く人がいれば光る場所です。どうぞ、那賀町を磨きたい方、いらっしゃってください。一緒にやりましょう。もちろん、お金儲けだけじゃなく、次の世代に受け継ぐために、です。私は、この町が50年100年先まで、存続して残っていって欲しいと思っています。
――「花瀬庵」の魅力を教えてください。
「花瀬庵」は、非日常を提供する宿だと思っています。ここに住んでる私たちにとっては日常でも、お客様にとっては、日常を忘れられるような場所にしたいですね。
例えば、大正時代の蔵をバーにして、上の階に宿泊部屋も作りました。普通だったら壊して潰す古い蔵を生き返らせたのです。
また、「花瀬庵」を拠点としたアクティビティを充実させる予定です。ウナギや川魚釣り。山での修験道体験やカヌーでの川下り、名勝・虻ヶ渕(あぶがふち)での飛び込み体験など。ここから車で30分の日和佐まで出て、海のアクティビティを楽しむこともできます。私自身、アウトドアが好きで、自分も一緒に遊びたいですね。そして、帰ったら旨い酒を飲む(笑)。
――吉岡さんの人生において、大事なことを教えてください。
夢を諦めずに、何でもチャレンジするバイタリティが大事だと思っています。それがあれば、人生はずっと楽しいです。そのためには、一緒に歩む仲間を大事にしたいです。
それとは逆の言い方ですが・・・この花瀬地区は、世帯数が半分ぐらいになってしまいました。今は8世帯ですが、一人暮らしのご家庭も多くなっています。私自身は、たった一人になってもやり抜くぐらいの気概で取り組んでいます。
――最後に、読者の方へメッセージを一言お願いします。
皆さんと交流したいです。私や「花瀬庵」に興味を持ってくださったら、まず遊びにいらしてください。たくさんお話ししましょう。気が合って、友達になれたら嬉しいです。
――ありがとうございました!
記事の中でご紹介しきれなかった「花瀬庵」のお料理とお部屋です。
★「花瀬庵」ホームページはこちら
★お問い合わせ
「花瀬庵」0884-66-0150
「吉岡さん」090-3185-6640
※一部写真は、吉岡さんにご提供いただきました。
“300年続いたこの家と、この地域を守りたい。人と出逢い、人に愛されて。◆吉岡誠(「山宿 花瀬庵」オーナー)” への1件のフィードバック