子どもの頃から家計を助けるために働いてきた努力家。「日本一の大工になる」と大阪に出て、28歳でUターンしました。熱心に仕事をして濃縮された道を歩み、現役を引退してからは、趣味を楽しみながら地域や周囲の方を率先して助ける“自遊人”。飄々とした雰囲気を身にまといながらも、内に秘めたる情熱はすさまじい方です。生き方の指針をお伺いしました。(取材年月 2022年8月)

水口 正幸(みずぐち まさゆき)

昭和27年生まれ。阿南市新野町出身。専門学校で建築を学んだ後、20歳でスカウトされ、大阪の工務店の仕事を請け負う。その後、大阪の各工務店で経験を積み、23歳で親方として独立。結婚のため、28歳で徳島にUターン。妻の実家のある那賀町中山地区に拠点を移す。二級建築士。二級建築施工管理技士。趣味は、釣り、ランニング、サイクリング、ボランティア、徳島新聞「鳴潮」欄の書き写し。

――いつもよくしていただき、本当にありがとうございます。水口さんには、私たち夫婦が中山地区に移住した7年前から、何度も助けていただきました。今日はよろしくお願いいたします。

たいした話はできませんが、よろしくお願いします。

――水口さんの子どもの頃のことを教えてください。

私の子ども時代は、落ち着いて勉強できるような環境ではなく、家も貧しかったので、ウサギや牛、ニワトリを飼って、お世話してお金を稼いでいました。3人兄弟ですが、家族を助けてばかりだった気がします。素直でおとなしい性格ですが、野心には燃えていました。

――今も、落ち着いた雰囲気がおありですが、芯がしっかりなさっているのは感じます。そして、人情家ですよね。とても優しいです。

子どもの頃は、おじいちゃん、おばあちゃん子でした。祖父が亡くなる直前、おぶって布団に連れて行ったのですが「正幸は、いい子じゃのう」が最期の言葉でした。

祖母の肩を揉んだり、爪を切ってあげたりもしていました。少し複雑な家庭でもあり、祖母が大好きでした。中学1年まで祖母と寝ていたのですよ。なので、祖母が亡くなったときは、こんなに涙が出るものか、と思えるぐらい号泣しました。

――水口さんの優しいご性格は、お祖父さま、お祖母さまの愛情をたくさん受けられたからですね!ところで、何歳で大阪に出られたのでしょう?

20歳で大阪に行きました。建築の専門学校で勉強していたのですが、大阪の工務店からスカウトされたのです。そのときは、「日本一の大工になってやる!」と思っていました。今にして思えば、何をもって「日本一」と思っていたのでしょうが(笑)。腕?稼ぎ?大阪に出てからは、とにかくがむしゃらに働きました。

22歳の頃
24歳の頃

――大阪では、どんな仕事をなさっていたのでしょう?

大阪では、大手ゼネコン、例えば、大林組や西松建設、不動建設などの下請けをしている宮本工務店で仕事をしました。木造一軒家の建築、マンションの内装などを行っていました。公団などのマンションでは、十数名で現場に入り、一人が何部屋か担当します。マンション10階建てだと、3か月程度で完成させていたでしょうか。

――バリバリですね!20歳で大阪に出て、何歳で独立なさったのでしょう?

23歳です。とにかく人より働いていたと思います。仕事ができたら、次の依頼がきます。東京に行っても負けないつもりで仕事をしました。当時は3日ぐらい寝なくても平気で、朝9時から22時ごろまで、14時間は働いていましたね。月収にして当時の銀行支店長と同じぐらい稼いでいたので、大阪でも家を建てました。

愛車のフェアレディZ

――順風満帆ですね!

それが、そうでもなく、実は大きなトラブルもあったのです。詳しくは言えないですが、それがあったことで人生観が変わりました。その問題が解決するまで3年ぐらいかかり、死にたいほどの想いもしました。

――そうでしたか。その後、徳島にUターンなさったわけですが、最初から帰ってくるおつもりだったのでしょうか?

帰ってきたのは、28歳になったら結婚しようと思っていたからです。仲人は伯母ですが、なかなか達者な方でして(笑)。彼女の手腕によって私たちは結婚し、私は妻の実家のある那賀町中山地区に帰ってきたわけです。

――徳島に戻ってから、仕事はどうなさったのでしょう?

最初の3年ぐらいは、地元の八田建設というところの仕事を請け負いました。この前、インタビューされていた近本茂さんは八田建設の先輩にあたります。あの方は、技術もさることながら、教え上手で素晴らしいのですよ。八田建設のあと、名前一本で仕事をしてきました。

――と、言いますと?

一人親方として飛び込み営業です。名刺も持たず、建設会社に直接伺ったり、現場監督に話をしに行ったりしました。腕を信用してもらえたら、仕事を依頼してもらえます。

引退後もたまに仕事を請け負う

――すごいですね!飛び込み営業は、嫌がられませんでしたか?

誰にも嫌がられませんでした。相手に「すぐ使える人間」だと判断させる自信がありました。その自信は、大阪で身に付けました。当時、地元の金物屋が、私が大阪時代から使っていた最新の大工道具を見て驚き、その道具を仕入れて売りまくったという話を聞いたことがあります。地元では、誰も使っていなかった道具らしいです。

――都会で経験を積んだことが、Uターンして活かされたのですね!水口さんにとって、仕事の喜びと大変さを教えてください。

とにかく、やればやるほど日当が上がっていった時代です。実力に伴ってお金が稼げることが楽しかったです。職人の世界は1か月まとめての現金払いで、札束が机の上に立った時代です。

ただ、大阪でのトラブルでお金はスッカラカンになりました。なので、帰ってきたとき、結婚指輪はローンで買いました。そして、家もローンで建てました。イチからスタートです。

――急上昇、急降下の人生を経験なさったのですね。

トラブルを経験したからこそ、なお、お金が大切だと痛切に思うようになりました。徳島に帰って、35歳から60歳まで外壁工事の仕事をしましたが、どんなに暑い日も外での仕事はキツいですね。

――水口さんは、家の側に貸家を5軒建てて経営なさっていますが、いつ頃建てられたのでしょう?

平成9年に借金して建てました。40代です。

――私も40代ですが、水口さんほどの力は無く、凄いと思うばかりです。

たいしたことないですよ。前しか見ていないだけです(笑)。前進あるのみです。

――水口さんの家の前の山は、いつ頃購入なさったのでしょうか?ご近所の方の憩いの場になっていて、私も何度もお招きいただき、水口さんが釣った美味しいお魚のお刺身やすまし汁など、ご馳走になりました。

平成5年に買いました。不動産屋が製材業者に売ろうとしていたけど買わなかったので、私が即断で買いました。今でこそ整備してありますが、当時は、鬱蒼とした暗い杉山でした。ボランティアにも手伝ってもらって杉を切って整地し、紅葉や桜を植えました。山の上にあった地神さんや六地蔵も降ろしてきて、定期的にお祀りしています。

――水口さんの「憩いの場」は凄いなあと思います。そして、何よりも素晴らしいのは、水口さんの「おもてなし」です。いくら、釣りがご趣味でも、刺身をあそこまで美しく盛り付け、皆を気遣い、もてなせる方はそうそういません。いつもホストとして動き、先読みなさっている行動を見て、感動しています。

水口さんの活け作り。紫陽花が洒落ている

当たり前のことをしているだけです(笑)。でも、気遣いは仕事にも通じると思っています。周りが見渡せなければ、仕事もできません。

――私の行政書士試験合格祝いでも、鯛を活け作りにしてくださりましたね!あまりの美しさにため息が出ましたし、何より、私の合格が分かる前から「鯛でお祝いする」と宣言して、鯛を釣り上げてご自身で活け作りにする、その“有言実行さ”に感嘆します。

改めて、合格おめでとうございます。焦らなくても大丈夫ですよ、藍さんなら。これから少しずつ積み上げてください。お金は後からついてきます。

紅白の椿が“祝賀”を表現

――ありがとうございます。水口さんは、お金儲けだけじゃなく、人や地域に尽くす気持ちがとても強い方ですが、地元のボランティアはいつ頃からなさっているのでしょう?

60歳になって初めてのボランティアは、遍路道のゴミ拾いです。ゴミが落ちていると、そこにまたゴミを捨てる人がいます。阿瀬比のゴミはうちの奥さんとも拾いました。立江寺から鶴林寺にかけては、何日もかけて拾いました。当時、酷かったのですよ。徹底的に拾った後は、ゴミを捨てる人がいなくなりました。遍路道に捨ててあるゴミをそのままにしておくのは、徳島の恥だと思います。

――そうだったのですね。今は、中山遍路道の清掃作業にも率先して行かれていますよね。

はい。中山公民館長の井上先生のお声掛けで、毎回、参加させていただいています。先頭を切っていくのが好きなので、テレビ(※地元の有志が撮影しています)にはあまり映りませんが(笑)。倒木等の処理をするために、チェーンソー持参です。

あと、地元運動公園の草刈りも一人でしています。何でも、一人で一気にするのが好きなのは、昔からです。トロトロ仕事をするのが嫌で、とにかく早く行動をしたい方です。ボランティアもその一環です。

――これまで何度も、私の三味線コンサートや三味線教室イベントのお手伝いをしていただいて、水口さんの動きの速さには驚いていました。そういえば、私が中山地区に移住して間もない頃、中山公民館でコンサートを開いた際、50枚ものチケットを販売してくださいましたよね。

そんなこともありましたね(笑)。藍さんはいつもニコニコなさっていたので、手伝いたいと思ったのです。

舞台上の“笹”も水口さんがセッティング

――本当にありがとうございます。あのとき、私がチケット価格を1,000円にしたのに、水口さんが500円で販売して、差額を水口さんがポケットマネーで補填してくださったじゃないですか。私が怒って、「どうしてそんなことするのですか!」と言うと、「藍さん、知名度ないから」とあっさり言われて、傷ついたことがありました(笑)。でも、すぐに、そんなことをしてくださる方は滅多にいないと、一目置いたのです。

藍さんを応援したかったのですよ。あのとき、家々を回って、チケットを買ってもらいました。

――感謝の想いしかありません。ケーブルテレビでコンサートを放映してもらい、「三味線奏者 藍」として、少しでも県下で知っていただくことができました。そういえば、水口さんが数十年後を見越して植えられた奥様の実家にある“しだれ桜”も見事ですね。奥様のお母様が庭を開放なさって、桜を観に来たご近所の皆様をおもてなしなさっているのも凄いなあと思います。

いつも観に来ていただき、ありがとうございます。義母も喜んでいます。

――あのしだれ桜は、本当に見事です。ところで、水口さんのご趣味の釣りは、何歳頃からなさっているのでしょうか?

近所のため池での釣りは、小学1年生ごろからです。ウナギが捕れました。農薬を使っていなかったので、用水路には蟹やらフナやらたくさんいたのです。

海釣りは、16歳ごろからです。最初は、地磯釣りでした。外仕事は雨が降ったら休みなので、そのたび釣りに行っていました。

牟岐大島にて。ブダイ6㎏

――釣りと、以前は、徳島マラソンにも毎回、出場なさっていましたよね。今は、毎朝5時からランニング、その後、サイクリングとか。

単に身体を動かすのが好きなのですよ(笑)。雨が降ったら一杯やっています(笑)。あ、うちの奥さんのことも聞いてください。

――それは失礼しました!奥様にも、本当にお世話になっております。我が家での交流会(飲み会)の際もお迎えありがとうございます。

うちの奥さんは、超真面目です。とてもしっかりしていますが、私が何をしても、一生懸命ついてきてくれました。奥さんがいなければ、ここまで上手くいっていないと思っています。

――水口さんは、とてもヤリ手だと思いますが、奥様に頭が上がらない様子をたまに拝見して微笑ましく思っています(笑)。30年以上中山地区に住んで、どう思われますか?

中山の人は、人間性がいいです。多少封建的なところもありますが、素直で人当たりがいい方が多いです。私が若い頃は認めてもらうのに数年かかりましたが、今はとても住みやすいです。そして、私も外から来た人間なので、移住してきた方には良くしたいと思うのです。

どんな方でも、那賀町に来て欲しいです。外国人だって構いません。こちらから壁を作ってはいけないと思っています。

――水口さんの人生において、大事なことを教えてください。

私の人生も色々ありましたが、苦労とは思っていません。試練だったと思います。試練を超えた先に成長があるのです。藍さんも、今は事業立ち上げで大変な時期かも知れませんが、苦労と思ったらいけないですよ。

――ありがとうございます。最後に若い方に人生の先輩としてメッセージをお願いします。

「大きな夢を持って頑張れ!」と伝えたいです。そのためには、まず「小さな木」を植えることです。その木が大きくなるには20年ぐらいかかるので、性根を据えて物事にかかってください。そして、信頼は死んでも切れません。そして、感謝の気持ちで、人に奉仕をすることが大事です。

仕事に、人に、誠実に生きる自遊人。◆水口正幸(自遊人、大工)

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