学生時代に出会ったギター、バンジョーを演奏し、気の合う仲間たちと作ったブルーグラスバンド「サーティグラスボーイズ」は結成35年以上。そして、20年にわたって、各地で「人権コンサート」を行ってこられました。教育者として生きながら、音楽を通じて「人権」の大切さを伝えてきた、その心情とは?内に秘めたる熱い想いをお聞きしました。(取材年月 2022年4月)
生杉 孝晴(いけすぎ たかはる)
1954年(昭和29年)那賀町中山(旧鷲敷町)生まれ。1973年、富岡西高校卒業。1977年、大阪経済大学卒業。同年、上勝町旭小学校を皮切りに、藍住中学校、加茂谷中学校、鷲敷中学校、徳島県教育委員会同和教育振興課(指導主事)、桑島小学校(教頭)、阿南第一中学校(教頭)、福井中学校(教頭)、羽ノ浦中学校(教頭)、福井中学校(校長)、加茂谷中学校(校長)と勤務し、2015年に退職。在職中は、社会科、人権教育を担当。部活動はソフトボール部、野球部、ソフトテニス部の顧問を担当した。
また、1985年「サーティグラスボーイズ」を4人のメンバーとともに結成、(ブルーグラスというジャンルのバンドでバンジョーを担当)学生時代より続けてきた音楽活動を再開。1995年より、「人権コンサート」を開始、県内外でコンサート活動を継続している。
現在は、那賀町人権教育推進協議会会長、徳島県人権教育研究協議会副会長、徳島県文化財巡視員、中山炭焼きさん代表、那賀町鷲敷地区民生委員、NPO法人那賀町吹筒煙火保存会会計、中山盆神踊り保存会事務局長、中山の自然を守るプロジェクト事務局長など歴任。好きな言葉は、「念ずれば花開く」(坂村真民)
――生杉さんには、私が中山に移住してから、三味線ライブの音響をお願いして、ずっとお世話になってきました!たまたま、音楽をなさっていた生杉さんがすぐ近くにお住まいだったので、とても助かりました。今回はよろしくお願いいたします。
ははは。改めて話すのは、照れますね。どんなことでも聞いてください。
――まずは、子ども時代のことを教えてください。どんなお子さんでしたか?
いやぁ、そりゃ可愛くて賢かったですよ(笑)。親父が教員だったのですが、「賢くしなければいけない」と、自分で自分を縛り付けていました。だから中学までは、優等生でした(笑)。
でも、今にして思えば、無理していた部分があったと思います。なので、高校から、ちょっとはっちゃけました(笑)。試験は赤点だらけで、親を泣かせました。単位が足りないので、レポートを書いて、なんとか卒業できました。
――ええー!それは、今の生杉さんのイメージと違いますね。でも、若い頃に遊んでいると、大人になって落ち着くのかな?(笑)ちなみに、音楽はいつから始めたのでしょう?
高校からギターを始めました。岡林信康さんの「手紙」という曲を友達が弾いていたのを見て、「かっこいい!自分も弾きたい!」と。本を見ながら、独学で弾き始めました。
当時、クラスメイトと文化祭に出たり、ラジオの番組にも出演したりしました。ギターを弾くとモテるかなと、密かに思っていました(笑)。深夜放送のリクエストをしたこともありました。うちの母がラジオで私の名前を聞いて、びっくりしたそうです。
――今、バンドで弾かれているバンジョーは、大学から始められたのでしょうか?大学時代のことも教えてください。
大学では、経済学を専攻して、「アメリカ民謡研究会」に所属していました。私たちがやっている「ブルーグラス」というジャンルは、アメリカで生まれたアコーステックなアンサンブルを奏でるストリングバンド音楽のことです。つまり、アメリカ民謡の一種です。ご存じのように、バンジョー、マンドリン、ギター、ウッドベース、フィドル(バイオリン)などがメイン楽器です。
「アメリカ民謡研究会」は、当時どこの大学にもありました。バンド活動もバンジョーも、このときスタートしました。当時の仲間とは、今でも交流があります。楽しかったですね。
――大学時代から、教員になるおつもりだったのでしょうか?
いいえ。大学では、中学、高校の社会免許と商業の免許をとりましたが、教員になりたいという強い想いはありませんでした。教員になりたいと思ったきっかけは、大阪の野田中学校での宿直代行員アルバイトで出会った先生たちの影響でしょうか。
――宿直代行員とはなんでしょう?
当時は、宿直をする先生の代わりに宿直をするアルバイトがあったのですよ。友達と3人で、私だけ県外でしたので住み込みです。当時、出会った先生方は素晴らしかったですし、可愛がっていただきました。その先生方に、教員免許をとっておいたほうがいいと言われたのです。
しかし、あの頃は学生運動が盛んで、試験の時、大学はバリケードで封鎖され、試験もありませんでした。なので、レポート提出でほとんどの単位をとりました。ラッキーでした。教育実習は、宿直代行員アルバイトをしていた野田中学校でした。そこで、生徒とのいい出逢いもあり、教員になりたいという想いが強くなっていった感じです。教員の先輩である親父には、反発していたのですけどね。
――その後、大阪から徳島に帰ってこられたのですね。もともと戻るつもりだったのでしょうか?
そうですね。漠然と、家を継がないといけないなあとは思っていました。帰ってきて、親父のコネで小学校の臨時教員として採用していただきました。ちなみに、小学校の免許は通信教育で取得しました。
最初に赴任したのは、上勝町の旭小学校です。学校の宿直室に住み込みをしながら、12人の5年生の担任をしました。音楽の授業も担当しました。ギターで音楽を教えたのですよ。あと、鼓笛隊の指導や音楽会の指導もしました。全校生徒で「パフ」を歌いました。
その後、採用試験に受かり、新任で藍住中学校に赴任しました。ソフト部の顧問になったのですが、5年目に県で優勝したのですよ。
――えー!それはすごいですね。優勝の秘訣はあるのでしょうか?
そうですね。私は、スポーツはさほど得意ではないのですが、信念がありました。私の教育方針は、「子どもたち、一人一人を大事にする」です。同和教育と出会って、その想いが強くなりました。同和教育については、また後でお話ししますね。
部活動においても、互いに尊敬することを教えました。特に、補欠の子を大事にしました。自分が出られなくてもレギュラーの子が活躍し勝ったら、自分のことのように喜べるようになります。レギュラーの子や花形の子ばかり贔屓するのはダメです。練習も、子どもたちの自主性を重んじ「やらされる練習」でなく、「何のための練習なのか、分かった上で」練習させていました。
初めて県総体で優勝して四国総体に出場したとき、ここに子どもたちを連れてきたいと思いました。子どもたち一人一人を檜舞台に立たせるということです。特に、子どもたちの「やり遂げた!」を大事にしたので、それが「部」を強くすることに繋がったのではないかと思います。
――普段、多くを語らず飄々となさっている生杉さんの「教育論」は、初めてお聞きしました!鷲敷中学のとき顧問をなさった、軟式テニス部も凄かったとお聞きしましたが。
はい、この雑誌に、藍さんもご存じの中山地区の方が載っていますが。彼は凄かったのですよ。岸くんです。高校3年生の時、国体の県代表選手として活躍しました。
――え?・・・あ!まぁくん!
1990年発行の「軟式テニス」という全国紙に取材していただきました。「第3回全国ジュニア王座決定大会」(ミズノカップ)3位のときです。当時、彼はキャプテンでした。
鷲敷中学校は、生徒数が少なかったので、全員部活制でした。それで、「運動が好きじゃない子にまで、なぜ強制的に部活をやらせるのか」と、保護者から苦情が出たこともあります。
でも、私は、中学校で何かを頑張って続けたことが、大人になっての「大事な経験」になると、思っていました。当時はイヤイヤでも、「3年間何かを継続した」ことを将来の励みにできるのではないかと。
――おっしゃるとおりだと思います。私が教えている三味線も同じです。三味線はとても難しい楽器ですが、「すぐに結果に結びつかないこと」を頑張り続ける「心の強さ」こそが大事だと思います。それには、子どもの頃からの「継続体験」があるかどうかが、左右するのではと思っています。
そうですね。そのためにも、子どもたちの適性を判断して、輝かせたいと思っていました。「人権コンサート」でも、たまに話すのですが、マンドリンを持っている人に、ギターの音を出せと言っても、無理でしょう?と。それぞれ持ち味が違うのです。ギターにはギターのいい音が、マンドリンにはマンドリンのいい音があります。「みんなちがってみんないい」(金子みすゞ)です。
――素晴らしい例えですね!それでは、音楽の話題に移りたいと思います。学生時代からの音楽活動ですが、社会人になってからどんな感じで継続なさったのでしょうか?バンドメンバーとの出会いなども教えてください。
1977年、小学校の臨時教員をしていたときに、美波町の大城君から「バンジョーを弾くのですか?」と、連絡をいただきました。そこからのご縁で、今の「サーティグラスボーイズ」メンバーの島田君(ギター)や豊崎君(マンドリン)と出会いました。彼らは、幼馴染みなのですよ。
――えー!人のご縁って分からないものですねえ。本当に偶然の出会いなのですね。
23歳のとき、勝浦郡の小中連合音楽会で、彼らと演奏させていただきました。ブルーグラスという珍しいジャンルを演奏するらしいと、声をかけていただいたのです。当時は、「サーティグラスボーイズ」という名前はつけていませんでした。
その後も、一緒にジャムなどして遊んでいたのですが、互いに仕事、結婚、子育てなどに忙しくなり、疎遠になっていました。
30歳になったとき、豊崎君から「また一緒にバンドをしないか」と、お誘いをいただきました。少し生活に余裕が出てきた頃でもあったので、即オッケーし、30歳ということで、「Thirtygrass Boys」という豊崎君のアイデアが採用されたように覚えています。
――そこから長い年月を経て、皆が還暦を迎えて・・・。凄いですねえ。他のメンバーはその後、加わったのですか?
バンドが結成されてから、近くにあるお洒落なログハウス風のハンバーグ屋さん「ウト・ウーク」で毎月1回ライブをさせていただいていました。そこに偶然来ていたのが、今、ベースを担当してくれている久保田君です。フィドル(バイオリン)の秋山君も、当時、たまにセッションしていましたが、バンドへの参加は、「人権コンサート」をし始めた1998年になります。
――サーティグラスボーイズが、「人権コンサート」を始めたきっかけなどを教えてください。
1995年、ベースを担当している久保田君の高校時代の級友がPTA会長をしている、美馬町の切久保小学校より出演依頼がありました。
ちょうどその頃、私は県教育委員会に勤めており、仕事の関係で、人権教育に関する講演依頼を沢山いただくようになっていました。ただ、話をするより、音楽を通じて講演したほうがいいだろうと、ギターを持って行ったらウケたので、どうせなら、バンドの皆と演奏したらどうだろうと、メンバーに相談しました。
試しに演奏したら、なかなかいい感じだということで、そこから「人権コンサート」がスタートしました。
――音楽と人権啓発を組み合わせる発想が素晴らしいですし、メンバーのフットワークの軽さもいいですね!
多いときでは、年間40回程度の「人権コンサート」を行ってきました。私たちが、参加型人権コンサートを行うことで、少しでも多くの方に、ブルーグラスの楽しさを知っていただき、人権意識の向上や差別解消の一助になればと思っています。
――「人権コンサート」はどんなところで行っているのでしょう?また、どんな曲を演奏しているのでしょう?
今は、コロナ禍でなかなか演奏に伺えないですが、徳島県内各地の保・幼・小学校の保護者参観や、隣の香川県、愛媛県、遠くは三重県や島根県、鳥取県などの小中学校にも伺いました。
人権コンサートでは、いろいろな人権課題を取り扱います。いじめ問題、障害者差別、民族差別、部落差別、男女差別、エイズなど、テーマにあった曲を選曲しています。楽器の紹介やブルーグラスらしい曲もプログラムに入れ、手話を取り入れたりして楽しく演奏しています。
――ブルーグラスの曲調は、明るくて楽しいですよね!なので、「人権」の重い雰囲気がなくていいのかも知れませんね!
そうですね。演奏を聴いてくださった生徒や保護者から、こんな感想をいただきました。詳しくは、ホームページをご覧いただければと思います。
――素晴らしいご感想ですね!音楽は「音を楽しむ」と書くと、私も生徒さんによくお伝えしますし、自身のコンサートでも、「お客様に楽しんでいただくこと」をメインにしてきましたが、こんな感想をいただけると、演奏したかいがありますよね!
結局、学校公演は「楽しい」から、私たちもずっとやっているのです。「人権コンサート」とともにサーティグラスボーイズはある感じですね。そして、自分たちが心から楽しむから、子どもたちにも楽しんでもらえるのだろうと思います。
――お話をお伺いして、生杉さんの生き方が見えてきた気がします。押しつけじゃない音楽性が素敵です。次に、「中山炭焼きさん」について、教えてください。いつ頃から、どんな形で行っているのでしょう?
20年ほど前に、地元に炭焼き小屋を作りました。皆が集まれる場があったらいいじゃないかと、手探りで始めたのです。
皆で一生懸命、炭焼きしていますが、どちらかといえば、炭焼きは手段であって、皆が楽しんで集まれる場を作ることが目的である気がします。飯盒で美味しいご飯を食べて、和気藹々と話ができたらいいなあと。
炭焼きは、もっと多くの方に気軽に参加していただきたいですね。ちなみに、作った炭は、道の駅わじきで、5キロ入り一袋1,000円で販売しています。よろしければ、ぜひ手に取ってみてください。
――次に、保存会事務局長をなさっている、地域の伝統芸能「中山盆神踊り」について、教えてください。
昔は、あちこちで残っていた「神踊り」ですが、いま、この近辺で残っているのは美波町赤松と、中山だけです。
中山地区の盆神踊りは、天明年間(江戸中期)に始まったと、言われています。氏神様やお寺に奉納されたもので、村人あげて親しみ、特に若者にとっては少ない娯楽の一つで、また、神踊りに参加することが、当然の義務とされていたそうです。
リズムに合わせて、皆で太鼓を打ち鳴らすので、通称「テンテコテン」と呼んでいます。味わい深い唄もあります。しかし、最近は、少子化や過疎化等により、だんだん参加する方が減ってきました。
「中山盆神踊り保存会」とは別に「中山盆神踊りを子どもたちに伝える会」を作ったのが、平成12年です。以前は、文化庁の「伝統文化親子教室」の助成を受けていましたが、子どもが10人集まらないと申請対象にならないので、コロナ禍の今は難しいです。こんな時代ですが、せめてお盆前には練習をして、伝統を絶やさないようにしたいと思っています。
――他にも、江戸時代から続く「吹筒花火」なども地元の皆さんで花火製作して、打ち上げイベントを企画なさっていますよね。この前、徳島県の無形民俗文化財に指定されましたね。
はい。「吹筒花火」は、徳島県南部の伝統的な花火です。NPO法人那賀町吹筒煙火保存会という会があり、私は会計を担当しています。
中山では、藍さんも毎年来てくださっている「カウントダウン吹筒煙火」というイベントをしていますし、那賀町内では、毎年、各組が花火の出来を競う競技大会も行っています。
こちらも、ぜひ皆さんに観に来ていただきたいですし、花火作り体験にも来ていただきたいですね。
――生杉さんは那賀町、そして、中山を愛していらっしゃるように思いますが、ずっと那賀町にお住まいになって、どう感じられますか?
一度、那賀町を出て、そして帰ってきて思うに、那賀町は自然が本当に豊かで、人情も豊かです。思いやり、助け合いの精神が生きているところですね。それは、炭焼きや吹筒花火、中山盆神踊りの活動を通じても感じています。地域の先輩方に、大事にしていただきました。
――私も、那賀町に来て、本当に色々な方々に助けていただきました。有り難いことだと思っています。生杉さんは、どんな方に那賀町に移住して欲しいですか?
そうですね。やっぱり地元の活動に協力してくれる方や、地域を一緒に盛り上げようと思ってくださる方に来て欲しいです。
――移住者の私も、できる限りのことをさせていただきたいです!今後の夢はございますか?
中山街道を、桜並木の街道にしたいです。昨年、「中山の自然を守るプロジェクト」を有志で立ち上げました。バラバラで活動していた炭焼きや、第21番札所「太龍寺」遍路道の掃除、中山川掃除などを一つのプロジェクトにまとめました。助成金をいただくためでもあります。活動を継続するためにもお金は大事です。そして、美しく豊かなこの土地を、皆で守りたいです。今後は、後継者も育成していきたいですね。
音楽活動は、ライフワークとしてずっと継続していきたいです。可能なら、定期的に昔の歌声喫茶をしたいですね。協力者募集中です。
――生杉さんの人生において、大切なことを教えてください。座右の銘はございますか?
愛媛のお坊様、坂村真民さんの言葉「念ずれば花開く」です。一心不乱に頑張れば、道が開けるという意味です。
また、「人生という大空に、心の旗を立てよう」という、私の同和教育における恩師の言葉も好きです。恩師は詳しい解説はしてくれませんでしたが、言葉は印象に残りました。「心の旗」は、正しい方向に向かう想いのことを言っていると思います。
一人一人を尊敬し、すべての人々の幸せを願った、水平社宣言の「人の世に熱あれ、人間に光あれ」は、まさにわたしの教育理念です。
――最後に、読者の方へメッセージを一言お願いします。
「吹筒花火」と「炭焼き」体験にぜひお越しください。お子さんも歓迎です。どうぞお気軽にご連絡ください。もちろん、「人権コンサート」のご依頼も大歓迎です!
――本日は、誠にありがとうございました!また、楽しい音楽をお聴きするのを楽しみにしております!
<生杉さんへのご連絡はこちらまで>
thirtygrassboys@mail.goo.ne.jp