一度はカメラマンを目指して上京。独立予定で、故郷に帰るつもりは全くありませんでした。しかし、父の病気をきっかけに、短期で家業の「いちご」を手伝うつもりが、「農業」に魅了され、そのまま家を継がれました。彼の心境を変えたものは?そして、今はどういう想いで仕事と故郷に向き合うか?お聞きしました。(取材年月 2022年2月)
近田 大介(ちかだ だいすけ)
1978年生まれ。鷲敷小学校、鷲敷中学校卒業。1997年、那賀高等学校卒業。1999年、大阪にあるビジュアルアーツ専門学校写真学科卒業。その後1年間、卒業した専門学校で助手として働き、上京。2年間、スタジオロフト(写真スタジオ)にて、スタジオマンとして働く。いよいよ独立しようとした時に、父が病気ということで、家業の農業手伝いに一時帰省。そのとき、農業が自分に合っていたのに気づき、就農(24歳)。農業の傍ら、地元の青年団に入り、節分の豆まかれサービス「なかはげ」や、那賀町内の様々な団体で構成する「もんてこい丹生谷」が主宰する「もんてこい劇団」で演劇。商工会青年部で、那賀町の面白い人、物、場所を地元の人に紹介する番組「かきまぜTV」を作って、ケーブルテレビで放映してもらう。消防団員、元こども園・鷲敷小学校・中学校PTA会長、鷲敷支部青年団部長。2020年11月より始めたYouTubeチャンネル「近田農園いちご生活vlog」は、登録者数1,000人を超える。
――子供時代のことを教えてください。どういうお子さんでしたか?
外で遊ぶのが好きな、活発な子供だったと思います。また、興味があることには、どんどんチャレンジするタイプでした。
――では、どうして専門学校で写真を学びたいと思われたのでしょう?
それが、不純な動機なのですが、高3の夏に彼女にフラれまして・・・。そうだ、カメラマンって女の子にモテそうだなあと思って(笑)。
――ということは、カメラがお好きだったのですか?
いえいえ。父のカメラにはたまに触っていたのですが、当時、自分のカメラは持っていなかったのですよ。専門学校で初めて自分のカメラを持ちました。
――それでも、カメラを仕事にしようとまで思われたのですよね。私の三味線との最初の関わりもそれぐらい軽いものでしたが(笑)。大阪の専門学校に入って、上京し、カメラマンとして独立しようと思われるまでのことを教えていただけますか?
専門学校では、2年間学びました。卒業生の中から、毎年、その学校の助手が選ばれるのですが、具合が良かったのか僕が選ばれたので、1年間、母校で働かせていただきました。でも、いずれは東京で仕事がしたいと思っていたので、助手期間が終わった後、上京しました。
東京では、港区にある写真スタジオに就職しました。レインボーブリッジが見えるところにあって、有名人がジャケット写真を撮るようなところだったのですよ。
――すごいですね!
守備範囲が広く、学べることの多いスタジオでした。機材の貸し出しも行っていて、映画スタジオに行ったり、ロケに同行したりもしました。
すごく忙しかったですが、若手が独立に向けて経験を積めるようなスタジオでした。なので、私も将来は海外で活動するつもりで働いていました。そして、スタジオで2年間働いた後、新しい場所へ行こうとした矢先、父の病気を知ったのです。
――お父様のご病気を知って、どうなさったのですか?
丁度スタジオの仕事を終えたタイミングだったので、とりあえず一時帰郷しました。父の様子も心配でしたが、少しの間、農作業の手伝いをして、海外に行く資金を貯めようと考えていました。
――それが、どうしていちご農家を継ぐことになったのでしょう?
「朝起きて、仕事をして、夜寝る」という生活が良かったからかなと思います。また、カメラマンは、相手の都合で全部決まりますが、農業は、自分で全てを決めて動けますし。
――私も20代の頃、上京してIT企業に就職しました。業界は違いますが、ちょっと似ている気がしますので、なんとなくおっしゃっていることが分かります(笑)。海外行きはどうなさいましたか?
海外での仕事には憧れがありましたが、農作業の手伝いで貯めたお金で約1ヶ月ヨーロッパを旅行したことで、区切りをつけた感じです。
――すっぱりと割り切れたのですね。
カメラマンとしての未練は無かったです。農業以外にも、那賀町に帰ってこようと思った理由がありました。それは、自然の中での暮らしです。
思い起こせば、子供時代から川でよく遊んでいました。家の目の前が川だったのです。そして、一時帰郷してからも、川によく行っていました。川の冷たい水につかる時間はかけがえのないものでした。そこで、改めて、自分は自然を相手にする仕事がいいと思ったのです。
稼ぎ的には、それなりに成功したら、カメラマンの方が良かったかも知れません。周囲に、年商1億円のような人もいましたので。
でも、夏の間、川で気持ちよく遊ぶのが最高だったのです。小さい頃からの原風景が好きだなあと。大人になっても、それがいいと思える自分がいたことにホッとしました。故郷への愛着は、子供の頃の記憶がいいか悪いかで、かなり変わると思います。
――分かります!子供時代のことって、結構覚えていますよね。いちご農家は、お父様の代からなさっているのでしょうか?
父は、もともと農協に勤めていたのですが、43年前にいちご農家を始めました。鷲敷地区で、ぼちぼち、いちご農家が増えてきていたのです。そして、私も生まれるということで、農協を退職して、いちご一本にしたようです。今は、その後、元気になった父と母、そして、私の妻の家族全員でいちごをしています。出荷用の箱の組み立てなどは、子供達も手伝ってくれます。
――いちごのお話をお聞かせいただけますか?例えば、一年間、どんなスケジュールでお仕事をなさっているのでしょう?
まず、苗作りです。イチゴの苗は、親株から発生するランナーから子苗を切り離して増やします。9月に親株を植えて、冬を越した5月ぐらいから子株を受けます。その後、育った子株の苗をハウスに定植します。その間には、土作りもします。うちは、畝を崩さない不耕起栽培です。
その後、11月後半から5月終わりにかけて収穫です。まさに今の時期ですね。収穫以外にもやることが多く、年中休む間がありません。
――素朴な疑問ですが、いちごハウスは、夜の間、どうして灯りをつけているのでしょう?
電照栽培といいます。いちごは冬眠するのですが、日照時間の長い春と勘違いさせるために、夜は電気をつけています。特に、このあたりで栽培している「さちのか」は、光に敏感な品種なのです。
――いちごは、温度管理も大事だとお聞きします。
いちごの適正温度は、25~26度です。二重のハウスで暖かさを保っています。うちは、冬の間も、無加温といって暖房をしません。このあたりの気候では、それも可能です。
現実的に、この地区は水害があって、暖房機を入れると万が一のことがあれば、莫大な被害になります。自然の中でできる最善のやり方を模索しています。無加温でどこまで美味しく出来るかが、研究課題です。
――私はいちごが大好きなのですが、美味しいいちごの見分け方を教えてください。
艶とハリがあって、ヘタの部分がピンとたっているのが、美味しいいちごの条件でしょうか。見た目で美味しそうなのが、美味しいのです。そして、新鮮であることですね。
――これからの季節、ぜひ美味しいいちごを堪能したいです!それと、先ほどから可愛い蜜蜂がハウスの中を飛んでいるのが気になります。
いちごは、蜜蜂がいなければ作れません。受粉がうまくいかないと、美味しいいちごにならないのです。
――そうですか!世界中、日本中、蜜蜂が減っているそうですが、美味しいいちごのためにも、蜜蜂が生きていける環境が大事ですね。お聞きしていると、いちご農家は、年中無休で大変そうですが、どういうところで、いちご農家が自分に合っていると思われたのでしょうか?
先ほどお話ししたとおり、時間が自由というところです。相手がいちごなので、自分の都合で仕事ができます。朝4時に起きてハウスに行って、夕方早く仕事を終えても構わないのです。
――朝4時!早起きですね。
毎日9時に寝て、4時に起きています。ヘッドライトをつけていちごを採っています。太陽が上がる前に収穫したいと思っているのです。思い込みかも知れませんが、夜が明けて、いちごが活動を始めると、栄養が葉っぱに逃げる気がしまして。
――とても健康的な生活ですね。見習いたいですが、なかなか難しそうです(苦笑)。いちご農家以外にも、いろいろ活動をなさっておられましたが、そのことを教えてください。
コロナ禍の前まで、地元青年団で、節分の豆まかれサービス「なかはげ」というのをしていました。簡単に言えば、鬼の出張サービスです。鬼の格好で家々を廻って、豆をぶつけられます(笑)。ちなみに、鬼退治の後は、福の神役の団員が来て、子供にはお菓子をあげるのですよ。
――「なかはげ」とは、絶妙なネーミングです(笑)。「もんてこい劇団」の劇団員もなさっていたとか?
「もんてこい」とは、ご存じの通り「帰っておいでよ」という意味の阿波弁ですね。東京に息子がいるけど、なかなか「もんてこい」と言えない木頭の方がいらっしゃいました。それなら、皆で、「もんてこい」と、言おうよと。それが劇団誕生のきっかけです。
地元の保健師さんが脚本を書かれました。私は、たまたま劇団員を決める会に行ったのですが、写真で手伝う予定が、いつのまにか劇団員になっていました(笑)。いろんな場所で、演劇を通して故郷の現状や良さを伝えたり、共有したりすることができたりして、とても楽しかったです。
――「かきまぜTV」という番組もなさっていましたよね。私が那賀町に移住してきたとき、ケーブルテレビで拝見しました。
ご覧いただき、ありがとうございます。那賀町商工会青年部の企画でした。今はコロナの影響もあって休止していますが、那賀町の面白い人や物、場所を、地元の人に紹介しようと企画しました。ケーブルテレビなら、皆が見てくれるだろうと、毎月1回放送していました。
――そして、今はYouTubeでの配信ですね!
はい、コロナ禍になって始めました。「近田農園いちご生活vlog」という番組名で、ありがたいことに、今は1,000人以上の方が登録してくださっています。2020年11月から、一日も休まず、いちごのことや、いちご農家のことを配信しています。
――近田さんのお考えや活動には、いろいろ共感することが多いですが、このYouTubeチャンネルの話は、本当にすごいと思うのです。私も演奏メインのYouTubeチャンネルを作っているので、動画制作や継続することの大変さは多少なりとも分かるのですが、なかなか毎日配信は行えません。
やはり農業のこと、そして、後継者のことをメインで考えていかないといけないと思うのです。そう考えたとき、自分は情報発信が好きだなあと、YouTubeチャンネルを作ることを思いつきました。
動画編集には、ある程度慣れていましたし、劇団員をしたり、ケーブルテレビ番組を作ったりした下地があったから、抵抗なくできたのだろうと思います。
YouTube配信は、「近田農園」の宣伝でもありますが、最終的には、鷲敷いちごを存続させたいと、強く思っています。そのためには何でもやるつもりです。
――私が、三味線にかける想いも、ほぼ同じような感じなので、とてもよく分かります。那賀町に戻ってきて、今、どう感じられていますか?
私は、旧鷲敷町の生まれですが、帰ってきたら平成の大合併で、鷲敷、相生、木沢、上那賀、木頭と一緒になって、那賀町という大きな町になりました。本来、鷲敷の人間は、木頭や木沢など、他の地区のことはなかなか分からないと思います。しかし、私は、「もんてこい劇団」の一員として「那賀町民」として活動できました。それが、今の自分の礎になっています。鷲敷のことだけじゃなく、他の合併した地区に対しても、視野が広がったのを感じます。
――正直、若い方は、いったん徳島を出た方がいいと思いますか?
僕はやりたいことが外にあったので出ていくことになりましたが、そこで色々な価値観に多く触れることができたのは、とてもいい経験だったと思っています。そして、それによって、故郷の良さを再認識することもできました。
あと、私は、父に一度もいちご農家を継げと言われたことはありません。すんなりと家業を継げたのは、子供の頃から、父が仕事を嫌そうにしていなかったからです。親が子供にそういう背中を見せていれば、子供は故郷を離れても戻ってくるかも知れません。
――私も、18歳で徳島を離れて、20年ぶりに帰ってきたので、とても理解できます。いったん離れたからこそ、見えることが多いですよね。私も帰れて良かったです。今後、那賀町にはどんな方に来て欲しいですか?
移住には、言葉悪く言えば、当たりハズレがあると思います。結局のところ、移住して、どんな人と出会うか、関わるかです。都会なら、隣人を気にせずに住めるかも知れませんが、田舎では、身近な人の存在が大事です。
どんな方でも、とにかく一度来て、那賀町を知って欲しいです。いろいろな地区があるので、その中で自分が合う地区があるかもしれないですし、地区によって産業もいろいろです。
――これからどんなことをなさりたいですか?
死ぬまで、いちご農家をやっていきたいです。そして、那賀町で、いちごをする仲間が増えたら嬉しいです。
「近田農園いちご生活vlog」は、一日500人ほどが見てくださっています。私のYouTubeチャンネルを見て、いちご農家に興味を持ってくれたらと思います。YouTubeチャンネルは、パソコンが壊れるまでやっていきたいです(笑)。
――近田さんの座右の銘を教えてください。
「日々、淡々と」です。辛いことも楽しいこともありますが、日々、できることを淡々とやっていければと思っています。
――最後に、読者の方に一言お願いします。
ぜひ、那賀町に遊びにいらしてください。いちごが欲しい方は、藍さんまでご連絡ください(笑)。
――えっ!?(笑)ありがとうございました!これからも同年代同士、頑張っていきましょう。よろしくお願いいたします。