30歳のとき、夫・子どもとともに大阪から木頭に移住。夫婦で「山村留学センター」管理人をし、地元の「じい、ばあ」に助けられる生活の中、木頭への愛を深めていかれました。物書きとしても、地域に暮らす人々を丁寧に取材し、新聞や雑誌等に多数寄稿。現在は「木頭図書館」司書として、地元に根ざした活動をなさっています。これまでのご経験と、木頭への想いをお聞きしました。(取材年月 2022年11月)
玄番 真紀子(げんば まきこ)
1968年、福井県生まれ。那賀町木頭在住。京都女子大学文学部英文学科卒業後、兵庫県・大阪府で教員、結婚を機に退職。子育て中に、環境や食に関心を持つ。その後、田舎移住を目指し、1998年、木頭村(現・那賀町木頭地区)北川小学校区での「山村留学センター」設立管理人募集に応募し、夫婦で大阪から木頭に移住。体験イベントやインターン受け入れなどを行う。山の暮らしやコミュニティの素晴らしさを雑誌、新聞に連載、冊子制作を行う。
◆連載/「週刊金曜日」「田舎暮らしの本」「月刊クーヨン」「朝日新聞徳島版」「コープ自然派機関誌タブル」など。◆冊子/「じいとばあから学ぶこと」(英語版)「The Traditional way of life in Kito ~Small good things~」、木頭杣人百景「Kitopedia」など。◆地域と方々との共同編集/「奥木頭百景」「いしだて 北川小学校137年の歩み」など。
司書として那賀町木頭図書館に勤務。阿波太布伝統技法保存伝承会副会長、四国民俗学会会員、土佐民俗研究会会員。2018年、学芸員資格取得。2021年、図書館司書資格取得。
――玄番さんとは、那賀町模擬女性議会でご一緒して以来です。あのとき、凜としてご質問なさっている姿が印象に残り、インタビューを申し出させていただきました。今日はよろしくお願いいたします!
こちらこそよろしくお願いいたします。
――玄番さんは、大阪で教員をなさっていたとのことですが、教員になりたいと思われた理由はなんでしょう?また、何の教科を教えられていたのでしょう?
それほど強い動機という訳でもないのですが、教員は、人を教えることで自分も高められ、広い世界を知ることができる仕事だと思いました。私立高校と公立中学で、英語を教えていました。
――議場での雰囲気は、まさしく、落ち着いた「先生」でした。結婚出産して教員を退職後、子育て中に、環境や食に興味を持たれたとのことですが、具体的にはどういうことでしょう?
初めて母親となり、自身の子どもが、乳児の頃は母乳だけを飲んで大きくなり、食べ物や水など、
「日々、口にするもの」が子どもの体を作っていくということに、驚きと感動を覚えました。
「食がいかに大切か」を実感して、なるべく無農薬のお米や野菜、化学処理のされていない無添加食材を求めるようになりました。当時はまだ少なかった、オーガニックの食材を扱うお店の方と親しくなり、その方から広がる人との関わりが、今に繋がっていると思います。
――子どもの健やかな成長を守りたい、という想いが食への関心につながったのですね。ご実家でも、食は大事になさっていたのでしょうか?
私は福井県の生まれですが、実家には小さな家庭菜園がありました。目の前の野菜を食べて育ったというのも、原体験にあるかもしれませんね。
――阪神淡路大震災のときは、炊き出しをご経験なさったとのことですが、詳しいお話を教えてください。
実は、長女が1歳の頃、我が家も大阪で被災しました。幸い家屋の被害だけで、人的被害はありませんでしたが、知人には、お子さんが亡くなった方もいらっしゃいました。
炊き出しは、その頃、通っていたオーガニック食材店の店主からの提案でした。知り合いの神戸市東灘区の方からの依頼もあり、有志を募って炊き出しに行くことになりました。
――そうだったのですか!ご自身も大変な中・・・。
震災後すぐは、自分たちのことだけで精一杯でした。なので、ある程度、身の回りのことが片付いた1年ほど経ってからの話です。
誰が亡くなってもおかしくない天災の恐ろしさと、辛くも生き残った命のありがたさを感じ、少しでも困った境遇にある方のお手伝いができたら、という想いから、子連れで参加しました。
仮設住宅の入居者は、ご高齢の方が多く、幼い娘の存在は、とても喜ばれました。そのとき知り合ったご婦人の一人とは、木頭に来てからもずっと手紙のやり取りをしていました。
秋に柚子をお送りすると、とても喜んでくださって、3年前に亡くなられるまで、ずっと娘の成長を楽しみにしてくださっていました。
――人との出逢いは素晴らしいですね。その後、大阪を離れて、木頭へ移住するまでのことを教えてください。
「子どものために、オーガニック食材や有機野菜を買う」こと。それはそれで、生産者を応援するという意味で、とても必要なことだと思います。何を選んで、何を買うか、一つ一つの選択が、世界を形作っているようにも感じました。
ただ、徐々に「買うだけではなく、“もと”から自分で作って、子どもや環境、次世代に対する責任をもって暮らしたい」と、思うようになりました。
また、都会では、子どもの存在が厄介に思われる場面に多々遭遇して、子どもも自分もストレスを感じながら暮らすことは、とても困難なように感じ始めていました。
――お子さんを育てる中で、環境や食への意識がどんどん強くなっていった結果、「田舎暮らし」に結びついたのですね。ご主人は、移住に反対しなかったのでしょうか?
連れ合いは大阪出身ですが、私たち二人とも似たような考え方でしたので、連れ合いも移住には賛成でした。仕事が休みのたび、二人で和歌山や高知、沖縄など、「暮らす」視点で、移住先を探しに行っていました。
――ということは、他にも候補地があったのですね。木頭への移住の「決め手」となったことは、何でしょう?
候補地を選ぶ中、木頭には何度か通って、いいところだな、という想いはありました。その頃、旧木頭村が「山村留学センター」を立ち上げるので、管理人を公募するというニュースレターが届きました。そこで、夫婦二人で管理人に応募し、採用いただきました。
――まさしくタイミングですね!移住するにあたって、不安はありませんでしたか?
全くありませんでした。すでに人が暮らしている地域ですし、何度か通って、現地に知り合いも増えていましたので。
――いきなり知らない土地へ移住するより、移住候補地に何度か通い、先に知り合いを作るというのは、移住成功の秘訣かも知れませんね。「山村留学センター」管理人の仕事を教えてください。
「山村留学センター」は、地域の方々が、地元小学校存続のために立ち上げた施設です。都会から受け入れた、地元の北川小学校に通う「山村留学生たち」が寝食を共にして、休日には木頭ならではの活動をします。
畑をしたり、地元の方に山へ連れて行ってもらったり、炭焼きを手伝ったり。私たちも、木頭に来たばかりで山村留学生と同じ立場でしたので、地域の方々とのつながりを一から作りながら、木頭の暮らしを学ばせていただきました。
娘二人は、当時0歳と5歳で、山村留学生たちと共に、“大きな家族”の中で成長させてもらいました。
その娘は結婚して、今は2児の母となり、自分たちが過ごした記憶をたどりながら、「山村留学センター」を受け継いでくれることになりました。
――素晴らしいですね!娘さんにとっても、とても良い経験になったでしょう。都会での希薄な人間関係よりも、ずっと密度の濃い経験ができたわけですね。ちなみに、「山村留学センター」管理人としての採用は、激戦だったのでしょうか?
いいえ。実は、応募は私たち夫婦二人だけでした。当時、山村留学生1人あたりわずかな額の給与支給で、固定給はありませんでした。定年退職なさった方がボランティア的になさることを想定していたのではないかと思います。
立ち上げ当初は、役場の方と一緒に留学生を募りましたが、その後は、夫婦で頑張って各所で説明会を開いたり、新聞に広告を出したり、チラシを作ってあちこちに置いていただいたりもしました。留学生が一番多いときが4人で、0人のときもありました。
――それは、生活が大変でしたね!
そうですね。それで、「山村留学センター」以外のことをしないといけないと切実に感じて、執筆活動を始めたので、何が幸いするか分かりませんね。
――執筆活動については、後ほど教えてください。「山村留学センター」での思い出に残るエピソードはございますか?
エピソードは、ありすぎて一言では語れません(笑)。とにかく留学生を親元から預かることの責任はかなり重いですから、心身ともにいつも全力投球しました。
留学生とは寝食共にずっと一緒にいることになりますから、ごまかしが効きません。自分の弱いところもさらけ出し、自己嫌悪も多々感じて、体調を崩すこともありました。
十分できなかったことばかりが記憶に残りますが、今も連絡をしてきてくれたり、仕事が休みの日にはわざわざ会いにきてくれたりと、こちらは反省ばかりなのに。留学生以外に、インターンの学生さんたちも受け入れていたのですが、皆さん、本当に強く、たくましく成長するものだなと、思います。
それはやはり、滞在中に、地域の皆さんとの温かい交流があったからだと思います。インターン出身者や元山村留学生たちが、いま木頭への移住を考えて相談してきてくれています。現地の相談相手として、自分たちはもう木頭から出て行くことは難しいなと思います(笑)。
――素晴らしいですね!玄番さんご夫婦が、長年、体当たりで積み上げてきた、地域の方々や留学生たちとの信頼関係が、少しずつ実を結んでいるのですね。それでは改めて、先ほど話題に出た執筆業について、教えてください。どういう流れで、新聞や雑誌に連載するようになったのでしょう?
大阪にいたときから、ミニコミ誌などで、子育てや環境のコラムを書いていました。話すことが得意ではないので、書くことで、同じ想いの方と繋がることができればと、思いました。
木頭に来てからは、木頭の方々の暮らしに対する姿勢や生き方そのものに感動して、「小さな村に、こんな素晴らしい人々の暮らしがあるということを知ってもらいたい!」と、思いました。
――「書きたいものがあるから書く!」というお気持ちは、よく分かります。このサイトがまさにそれですから(笑)。
全国に、このような素晴らしい暮らしや人々の営みがあるのでしょう。でも、それは、地元の方には当たり前過ぎて、表に出ていないだけなのです。
エコやSDGsが大事だと世間では言われますが、便利な世の中にあってもなお、昔ながらの生活様式で暮らしている方々がいること、お風呂を焚く薪の確保や、山や畑の恵みを保存する知恵など、都会で、「欲しいものは購入する」のが当たり前の暮らしをしていた私には、目からウロコでした。
――分かります!最初に取材をさせていただいた自伐型林業の橋本家のお風呂が「薪で炊いている」と知ったときは驚きましたし、那賀町に昔から暮らす方々の暮らしぶりは、東京からUターンした私にも、とても新鮮でした。
知識だけあっても、実は何も分かっていなかった、かつての私のような多数の大人たちがこの世界を作っています。でも、なんだか方向がおかしいなと、思っていました。それが、木頭に来て、「あ、ここに答えがある!」と、ストンと落ちるものがありました。
伝えたいことが山盛りあって、いくらでも文章で書くことができました。書いた文章を、購読していた雑誌などに送って、連載企画として採用されたのが最初です。
連載を見た他の出版社の方から、直接連絡をいたたいだこともありました。「当事者性」というだけの強みで、ド素人の文章を取り上げてくださったのは、編集の方々の共感と深い理解があったからこそのことで、連載が終わってからも、個人的に繋がっています。
――イラストも描かれるのですね!あたたかみがある雰囲気で素敵です。文章を作る上で大事になさっていることを教えてください。
私は、人を取り上げることが多いのですが、丁寧な聞き取りを心がけて、こちらの思い込みで文章を作り上げないようにしています。
――聞き取り活動について、詳しく教えていただけますか?
24年前に木頭へ移住してから色々教わった年代の方々の多くは、亡くなられました。自然と共生する術を知る、山に生きた人がお一人亡くなると、山村の大きな歴史や文化が一つ消えてしまう印象です。
「いま聞き取りをしておかない!」と、という想いから、お一人お一人のライフヒストリーをお聞きしながら、その中から「普遍的で大切なこと」を探すために、2000年頃から記録を続けています。
その方が歩んできた歴史や、具体的な暮らしの知恵の中から、物事の捉え方や洞察力、他者との協働など、山だけでなく、町で暮らすにあたっても必要とされることが、沢山あるように思います。
――とても共感いたします!私も、那賀町で生まれ育った方々と触れあって、こちらでの暮らしを知り、「本で得る知識」より、ずっと奥深い「真理」があるのを感じてきました。改めて、木頭への想いをお聞かせください。
木頭は、住めば住むほど、魅力を感じるところです。日々、新しい発見があり、新鮮です。
木頭で一番惹かれるのは、何より「人」です。素朴なあたたかさだけでなく、生きる上での力強さも感じます。そして、個性豊かで、なんだかムーミン谷のようで楽しい(笑)。
――ムーミン谷!絶妙な例えですね!(笑)それでは、現在のお仕事について、教えてください。木頭図書館の司書として、何をなさっていますか?
物書きをライフワークにしていますが、それは伝えたいことがあってのことで、ライターという職業をしたいわけではありませんでした。
いま、学校も何もかも統廃合の傾向にあり、机上の数値だけで、小さい存在は人為的に消滅してしまう流れです。現在、図書館司書として、全国的にも珍しく、奥地にある木頭図書館に勤務して、この場でできることを、精一杯していきたいと思っています。
この地に図書館という文化的施設を設立し、残してくださった先人たちの想いを大切にし、本を貸し出しするだけでなく、「地域コミュニティの核」となるような元気な場所を作っていきたいと思います。
これまで住民の皆さんの作品展示だけでなく、「ツキノワグマのシンポジウム」や「鳥居龍蔵(※)」についての講演会など、少し拡張したこともしてきました。これからも様々な繋がりを持って、活動や内容を充実させていきたいと思います。
※明治3年、徳島生まれの人類学・考古学・民族学の先駆者。
――那賀町のいいところはなんでしょう?また、どんな方に那賀町に来て欲しいですか?
そうですね。何かを始めようとしたときに、必ず協力者が現れるところが、那賀町のいいところじゃないでしょうか。
そして、どなたでも、那賀町に魅力を感じた方に来ていただければと思います。
どこに住んでも一長一短ありますが、それらをひっくるめて、ここでの暮らしを楽しめる方がよいと思います。地元の協力者と巡り会うことができれば、移住も8割方上手くいくのではないでしょうか。
――全く同感です。私も那賀町に移住して7年ですが、いい方々と知り合えたおかげで、色々チャレンジできました。移住者として、那賀町に住んで何を感じますか?
那賀町は、決して閉鎖的ではないと思います。何かを新しく始めようとしたときに、賛同して協力を得られる可能性も大きいのではないでしょうか。移住に当たって、もっとも大事なのは、「人」だと思います。
――これからどんなことをやっていきたいでしょうか?夢はございますか?
現在、木頭図書館は、公的機関でありながら、指定管理という自由度もあります。図書館は、世界的にも、時代とともに新しい役割を担ってきています。
木頭図書館においても、図書館機能としての基礎はしっかり押さえながら、信頼できるスタッフとともに、常に新しいことにチャレンジしていきたいと思っています。そして、地域に愛され、誇りに思ってもらえるような図書館を目指していきたいと思います。
――私も、子どもの頃から本が好きで、図書館にはよく通っていました。でも、こういう視点の方がいらっしゃるというのは、目から鱗です。木頭図書館は、もともとお住まいの方にとっても、移住者にとっても、素晴らしい交流・発信拠点になりますね!最後に、読者の方へメッセージを一言お願いします。
人生を折り返す年齢となりましたが、これまでの人生で「今が一番楽しい!」を、日々更新しています。
それは木頭に居ながらにして、無限大に人と繋がり、繋がった分だけ、自分の暮らしにも奥行きができているからです。
人口が少ないことはマイナスなこともありますが、人が少ないからこそ打てば響くような濃い関係性が生まれ、プラスになっていることもあります。
諦めず、何事もやらないよりはやったほうがいい、失敗したら、それはそれで人生の肥やし、限りある人生、存分に楽しみましょう!
ぜひ、木頭へ、そして、木頭図書館に遊びにいらしてください。
◆木頭図書館の公式サイトはこちら