生粋の「木頭娘」である中野みね子さん。61歳で亡くなった、アマチュアカメラマンだったご主人の遺志を継ぎ、故郷を明るく照らす場所を作りたいと、ギャラリーカフェ「Ken’sギャラリー」ゲストハウス「はなれ」を運営なさっています。結婚当初から病気だったご主人を長年フォローし、走り続ける人生を送られてきました。ご主人への愛情、木頭への想い、そして、力強い生き方をお聞きしました。(取材年月 2022年10月)

中野 みね子(なかの みねこ)

昭和22年生まれ。木頭出原出身。那賀高校木頭分校卒。19歳から、木頭病院にて医療事務に携わる。48歳で那賀町役場教育委員会に転職するも、53歳でご主人の看病などを理由に退職。2007年から、ギャラリーカフェ「Ken’sギャラリー」、2017年からゲストハウス「はなれ」を運営。

 

――中野さんのお噂は、かねがね聞いておりました。とてもパワフルな女性だと!

私は、内弁慶ですよ。もとは大人しい性格です。でも、私は4人きょうだいの長女で、子どもの頃から、弟妹たちの面倒を見てきたので、人の世話をするのが好きです。尽くすタイプだと自分でも思います(笑)。

定時制の那賀高校木頭分校に通っていたのですが、私が高校2年生の時に、父が亡くなりました。享年45歳です。貧しい家だったのですが、母が高校は出ておいた方がいいと言ったので、進学することにしました。

――そうだったのですね!

今にして思えば、高校卒業資格があったことは良かったと思います。卒業後は、木頭病院で医療事務をしました。母の側にいてあげたいと思い、地元で就職したのです。

ちなみに、私は、頭は良くないのですが(笑)、高校ではいい先生に恵まれて、「勉強の楽しさ」を教えていただけました。今でも感謝しています。

その先生が、私が勉強を頑張ったことを父の前で褒めてくれ、その後、父が亡くなったので、少しは父親孝行も出来たかなあと思います(笑)。

中学時代

――「勉強の楽しさ」を学べたというのは、素晴らしいですね。中野さんは、けして頭が悪いなどと思わないですよ!

いい級友や先生に巡り会えて、いい学校生活を送ることができました。私なりの勉強でしたが、自分を成長させてくれました。

私は、子どもの頃から病弱だったので、病気の方の気持ちも少しは分かり、木頭病院での仕事も向いていたと思います。当時は木頭の人口が4,000人ぐらいで、さらにダム工事で現地滞在する方も多くいらっしゃったので、病院の受付は大忙しでした。

医療事務職でしたが、加えて、病院周辺の草取りや宿舎の清掃などの雑用もたくさんしました。よく働く面倒見のいい先輩がいて、その方が憧れでした。とても丁寧に教えていただきました。彼女のようになりたいと思いましたね。

木頭病院での勤務

――お亡くなりになったご主人は、地元では有名なアマチュアカメラマンの中野建吉さんですが、出会いを教えていただけますか?

彼も私も、地元の青年団に所属していて、そこで出会いました。私が、彼にぞっこんでした(笑)。出会った時から、「この人を支えたい!」と、ビビッときたのです。

――わあ!運命の出会いですね!

ところが、彼の周辺には綺麗な娘さんがたくさんいて、年頃ですから内心焦っていました(笑)。友達に相談できないような悩みも、母には打ち明けていたのですが、ある日、母に「建吉さんと一緒になれないなら、私は徳島(市内)に出て行く!(木頭を離れる)」と言ったのです。

その後、母が建吉さんに、「早く嫁にもらってくれないと、あの子が徳島に行ってしまう」と伝えてくれました(笑)。そして、晴れて一緒になることができたのです。

――情熱的な中野さんも凄いですが、お母様も凄いですね。

24歳の時、「この人に尽くしたい!」と、押しかけて一緒になったのですが、彼と一緒になれて、本当にいい人生を送ることができました。ちなみに、私が彼の1歳年上です。

――建吉さんとの思い出を教えていただけますか?

実は、結婚してすぐ、彼は十二指腸潰瘍穿孔になりました。そして、その時の輸血が元で、C型肝炎になってしまったのです。彼は、地元役場に勤めていたのですが、結婚してから亡くなるまでずっと、地元の病院、日赤病院、役場、家を往復する生活でした。日赤病院へは、私がいつも送迎していました。

若い頃はうつ的な時期もありましたが、普通なら根を上げそうな体調でも、「辛い」と言ったことがないのが、私には助かりましたね。

新婚当時の建吉さん
新婚当時のみね子さん

――建吉さんにお会いしたかったです。素晴らしい方だったのでしょう。

ありがとうございます。建吉さんは、不思議な人でしたよ。今でも何を考えていたのだろうと思い出しますね。

建吉さんの周囲にはいつも人がいて、私も彼の写真仲間の会合によく連れて行ってもらいました。木頭から出たことのない私ですが、そういう機会に、人との接触の仕方を覚えたように思います。

趣味の写真にばかりのめりこまず、私のこともおろそかにしないで、一緒に楽しませてくれたことに感謝しています。

――建吉さんの出版なさった、木頭の人々や生活を撮影した写真集「ぬくいぜんか」について教えてください。

「ぬくいぜんか」というのは木頭の方言で、「暖かいですね」という意味です。写真集には、1979年(昭和54年)から2005年(平成17年)までの26年間、彼が木頭で撮影した写真126点が収められています。2006年(平成18年)に出版しました。

もともと、彼が写真撮影を始めたのは、私たちの子ども2人の成長をカメラで追ううちに、自分が生まれ育った木頭の自然や風習、人々の生活を残しておきたいと思うようになったことがきっかけです。

徳島新聞社の「読者の写真コンクール」に応募し、最優秀賞をいただきました。他のカメラ雑誌の賞もたくさんいただいたのですよ。

――写真集を拝見しましたが、被写体の素朴であたたかい表情や雰囲気が魅力です!また、木頭の暮らしがよく伝わってきますね。

彼は、亡くなる4年前に「ぬくいぜんか」を出版したのですが、彼自身はふんわりした芸術家で、「写真集が作りたい」とは言っても、具体的な行動は起こしませんでした。なので、私が写真仲間に相談し、編集していただく人を紹介してもらいました。

――そうだったのですか!二人三脚で出版した写真集なのですね。

彼のために、とにかく何でもしてあげたかったのです。そして、写真集ができたら、木頭の人に見てもらいたかった。だって、木頭の人が主役の写真集ですから。出版記念の盛大なパーティーもしました。

出版記念パーティー(左 みね子さん、右 建吉さん)

その後、「いつでも写真を見てもらえるような場所を作りたい」ということで、「Ken’sギャラリー」をオープンしたのです。彼は、オープンから2年後に亡くなりました。

――ご主人の夢を、中野さんが支えたのですね!でも、オープンからわずか2年でお亡くなりになったのは、残念ですね。

私は、残念というよりも、2年間でもその場所に触れあえたことが良かったと思っています。

彼は夢ばかり追っているような人間でしたが、闘病中、一度も「苦しい」とは言わず、開腹手術をしても、なんともない顔をして役場に行っていました。週末は、病院から家に帰って写真を整理し、「Ken’sギャラリー」オープン準備をしていました。

その後、容態が悪化し、日赤病院から手を離され、地元の上那賀病院に転院したのですが、その時も私のことを思い、「病院が近くになって、お母さんが楽になったね」と、言ってくれました。

そこでも、肝臓専門のとてもいい先生に出会い、その先生や看護師さんと友達のように仲良くしてもらいました。

彼の生き方は、自然体でしたね。亡くなる時も、とても穏やかな最期でした。彼と接して、「人間は、とにかく楽しく生きなきゃいけない」と思うようになりました。

建吉さんは、最期に「お母さんのおかげでいい人生が送れた」と、言ってくれました。私は、彼から「人に尽くすことの素晴らしさ」を学んだのです。

――胸に迫るお話です。お二人の思い出をお聞かせいただき、ありがとうございます。「Ken’sギャラリー」のことを教えてください。

平成17年、木頭村、木沢村、上那賀町、相生町、鷲敷町が合併して、那賀町となりました。「Ken’sギャラリー」をオープンしたのは、那賀町ができて2年後です。

当時、木頭は那賀町の一番奥だから、寂れていくんじゃないかと、心配でした。「Ken’sギャラリー」は、国道沿いにあるのですが、20時頃まで電気を灯していたら、明るくなっていいんじゃないかと、建吉さんと話していましたね。

「Ken’sギャラリー」の土地は、以前、親が購入していたものですが、お店に活かせて本当に良かったです。自分たちの夢のためにも、周囲の方のためにも、このお店を守りたいですね。

――ログハウス調のとてもお洒落なお店で、便利な国道沿いなので、お客様も来やすいですよね!

夢のあるお店にしたかったのです。木頭杉を使った伝統工法だと完成まで時間がかかるので、建吉さんの身体に合わせて急ぎたかったですね。いろいろ調査をして、出会った工務店が、カナダの材木で建ててくれました。カナダの職人さんもいらしたのですよ。

ランチには、那賀町の郷土料理「かきまぜ(※1)」や徳島の郷土料理「そば米雑炊(※2)」、あと、地元で採れた季節のお野菜などを使ったお料理などを提供しています。

※1 かきまぜ・・・酢飯に、醸造酢ではなく、地元特産の柚子果汁をふんだんに使って作る五目寿司。

※2 そば米雑炊・・・そばの実を粉にせず、そのまま塩ゆでして殻をむき、乾燥させる。これを「そば米」として、野菜や肉とともに出汁で煮込み、雑炊にしたもの。

▼2階が建吉さんの写真を展示するギャラリーになっている

――ランチ、本当に美味しかったです!ごちそうさまでした。次は、ゲストハウス「はなれ」のことを教えてください。

「はなれ」の開業は2017年です。元々、建吉さんの母、つまり私の義母の郷です。

当時、木頭には泊まるところがほとんどありませんでした。なので、私は、知り合った方をどんどん自宅に泊めていたのです。ちょっと知り合っただけの他人を家にあげるなんて、と言われながら(笑)。困っている人を見ると放っておけないのですよ。

別世界へ誘われる気分になる「吊り橋」風の入り口

――凄いですね!なかなかそこまで出来る方はいません。

その後、「はなれ」に元々あった空き家を取り壊す話を聞いたのです。台風などで瓦が飛んだりして危ないからと。それなら、そこを「ゲストハウス」にしようと、思い立ちました。

鶏舎や牛舎もありましたし、家の中には残置物がたくさんあったので、片付けは大変でした。近所の方をお呼びして、まだ使えそうなグラスセットや毛布などはもらっていただいたりもしました。でも、あの片付けは、勢いがないとできないですね。

その後、3人のデザイナーさんとお話をし、私の想いを一番分かってくださった方に「はなれ」のデザインをお願いしました。

お客様に「来て良かった。もう一度来たい」と思っていただけるような宿を作りたいと思いました。ほっとして、くつろげて、それでいてモダンで。

その後、「はなれ」オープンから5年かけて、少しずつ庭も手入れしていきました。しだれ桜やシャクナゲ、紫陽花も植えたのですよ。元は、鶏舎や牛舎があったところです。

――お一人で?大変じゃなかったですか?

それが、苦痛にならないのですよ。あちこちに工夫して植えるのが、楽しいのです。この鉢には、メダカもいますよ。

「はなれ」にお泊まりになった方には、自由にしていただきます。夕食や朝食はご希望いただければ、私がお料理してお持ちしますし、調理場もあるので、食材を持ち込んで自由に料理していただくこともできます。

――静かな環境で、ゆったり過ごせそうですよね。ピザ釜もあるなんて素敵です。改めて、木頭への想いをお聞かせいただけますか?

とにかく、来てくださった方に木頭を好きになってもらいたいと思っています。自分でもお節介だと思うのですが(笑)。そして、せっかく来てくださった方を大事にしたいです。

木頭に移住してこられた方がいたら、全力でフォローします。若い人たちに一人でも二人でも住んでいただきたいです。

木頭で暮らしていると、お金はあまり使いません。野菜を育てたり、周囲からいただいたり。あとは、お魚とお肉があればいい。自然が好きであれば、日々を楽しむことができます。

――移住者の不安の一つは、「周囲と仲良く出来るか」です。中野さんのような方がいらっしゃれば、心強いですね!私も、7年前に旧鷲敷町の中山地区に移住して、周囲の方々に助けていただきました。那賀町に定住できるかのポイントの一つは、地元の方との関係が作れるかだろうと思います。最後に、中野さんの人生において、大事なことを教えてください。

私が建吉さんから教わった「日々、明るく、楽しく過ごす」です。彼と一緒にいて、私はたくさんのことを学べました。感謝の気持ちで、毎日頑張りたいですね!

人と人との触れあいを大切にすることが、この町をあたたかく守っていく、基本的なことだと思います。

――今日は、貴重なお話をありがとうございました!

Ken’s ギャラリー】

那賀町木頭出原ワダ2番地
050-8800-6103
9:00~18:00/月曜定休
※ランチセットは要予約

【はなれ】 1日1組限定

那賀町木頭出原字カワシマ
1棟1泊1名 7,700円(2名利用の場合は1名6,600円、3名以上の場合1人5,500円)
食事は要予約(夕食1,000円~3,000円、朝食1,000円)
※食材を持ち込んで、調理可能
チェックイン 応相談
チェックアウト 11:00ごろ
※Ken’s ギャラリー(050-8800-6103)に電話すると、現地までご案内

亡きご主人の遺志を継ぎ、皆に灯りを照らす場所を運営。◆中野みね子(ギャラリーカフェ「Ken’sギャラリー」ゲストハウス「はなれ」運営)

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亡きご主人の遺志を継ぎ、皆に灯りを照らす場所を運営。◆中野みね子(ギャラリーカフェ「Ken’sギャラリー」ゲストハウス「はなれ」運営)” への4件のフィードバック

  1. みねこさん、インタビューを読んで知らなかったみね子さんに出会った思いです。
    もとは大人しい性格です。
    に、ちょっと笑ってしまったけれど。
    お母さんのそばに居てあげようと思って木頭に残った事、健吉さんへの思い。
    そして、誰のためにでも力を尽くす。
    全力でフォローする。
    という気持ちを聞いて、みね子さんの生き方である、惜しみなく人に差し出すと言う事。
    幸せに生きる根本なんだなあと教えて頂いた気がします。

    木頭の事を話すと皆行きたいと言ってくれます。
    木頭でのおもてなしは豊かな自然だけでは半分もいかないと思いました。
    住む人々の共に生きようとする心、自然体の
    思いやり、優しさ。
    これに触れてもらってこそだなあと。

    ご活躍、心よりエールを送ります。

  2. もう少し早く木頭に通っていたら建吉さんに会えていたのではないかと思うと残念です。みね子さんに会うといつもパワーもらうので私も頑張らなくては、それと人に尽すことの大切さも学びたいと思います。健康に気をつけて元気でいて下さいネ。こらからもよろしくお願いします。

  3. 今年の3月に出張で徳島を訪れた時、ゲストハウスはなれに泊まらせていただきました。中野さんとはちょっとした会話をしただけでしたが、「この方、只者じゃない!」と思いましたね。皆さんがコメントされているように、「自然体の思いやりと優しさとパワー」という修飾語がぴったりな方でした。また行きたいと思います。その時はまたいろいろなお話を聞かせてください。益々のご活躍をお祈りいたします。(でも、あまりご無理なさらずご自愛ください。)
    P.S. そば米雑炊の、あの心まで温まるお味が今でも忘れられません。

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