家庭の事情で父親と同じ大工の道へ。それが「天職」との出会いだったそうです。謙虚に技術を学び、生まれ育った地に足をつけて生きてこられました。77歳にして現役大工です。自分の運命にあらがわず、かといって、流されない生き方が魅力的な方です。棟梁としてのこれまでの歩みをお聞きしました。(取材年月 2022年7月)

近本 茂(ちかもと しげる)

昭和20年生まれ。那賀町(旧・鷲敷町)出身。中学卒業後、家庭の事情で進学を諦め、東邦レーヨン株式会社(2018年、帝人株式会社に吸収合併)に6年間勤める。同会社で仕事をしながら、18歳で徳島工業高校機械科(定時制)に入学し、21歳で卒業。その後、様々な工務店での仕事請負を経て、33歳で地元にある八田建設に勤務、棟梁としての仕事を任せられる。70歳で退職し、個人として仕事を請け負う。詩吟「青雲流」師範。趣味は、クラシックギター演奏とカラオケ。

  

――近本さんには、私たち夫婦が那賀町に移住してきたときから、大変お世話になっております。今回は、よろしくお願いいたします。

たいした人間ではないですが、私のお話しできる範囲でお答えさせていただきます。

――7年前、大家さんに近本さんをご紹介いただき、家の修繕、そして、先月は、私の新しく始める、行政書士・不動産事務所のリフォームもいただき、本当にありがとうございました!ビフォーアフターを見て、大工さんって凄いなあと感心しました。

ビフォー

アフター

――今日は、近本さんの大工としての歩みをお教えいただければと思っております。子どもの頃から大工になろうと思っていたのでしょうか?

いいえ。私の父親が大工でしたが、もともと大工になりたかったわけではありません。中学卒業後、高校に進学したかったのですが、家庭の事情があって断念し、北島町(徳島県北部)にある東邦レーヨンという会社に入り、寄宿舎生活をしました。2年間は、東邦レーヨンの養成校で学び、その後、同会社に勤めながら定時制の高校に通いました。なので、高校卒業は21歳のときです。

――その後、どういう流れで大工になったのでしょう?

定時制高校に通っていたときから、東邦レーヨンを辞めて別で働こうと思っていました。高校卒業後、大阪の機械工業の会社に就職が決まっていたのですが、卒業式に親がきて、実家に戻って家を継いで欲しいと。

――え!?そうだったのですか。

はい、私の家は兄が若くして亡くなっていて、そのお嫁さんと子どももいました。親や親戚に勧められるまま実家に戻り、そのお嫁さんと結婚しました。それが、今の家内です。

――現代だとあまりない話だと思いますが、長男が家を継ぐのが当たり前の時代ですよね。

そうですね。なので、親に逆らおうという気持ちにもならず、実家に戻り、最初は、紡績工場で働いたり、県有林の管理の仕事をしたりしていました。その後、父親が「大工でもするか」と言ったので、父親の見習いをしたのです。といっても、あまり教えてはもらえず、見よう見まねでしたが。

――職人さんらしいお話ですね!その後、ずっと父親について学ばれたのでしょうか?

いえ、父はその後4、5年で引退し、27、8歳ごろからは、フリーでいろいろな工務店の仕事をさせていただきました。その後、33歳で地元の八田建設に勤め、それから退職する70歳までは棟梁として仕事をしてきました。八田建設では、入母屋(いりもや)建築の仕事が多かったです。先輩や同僚から学びました。

近本さんが棟梁として建てた入母屋建築の家(コノブ薬局母屋)
玄関

――機械の仕事に戻りたいとは、思わなかったのでしょうか?

それが思わなかったのです。工作をするのが好きで、大工の仕事は面白かったです。今住んでいる家も大工だった父が建てたのですが、それを子どもの頃に見ていました。また、家を建てるため、山から木を伐りだした後の植林を手伝ったりもしていたので、違和感なく大工の仕事に入れた気がします。

――流れに逆らわず、「天職」を手に入れられたのですね。ところで、近本さんはこの前、阿南市にある片山郷司神社の本殿を造られていましたし、以前は、地元の神社も改修されたとか。一般の家と異なる神社仏閣建築の勉強は、どうやってなさったのでしょう?

勤めた八田建設の社長は元大工で、神社仏閣の建築工事に関心の高い方でした。なので、八田建設で請け負う仕事にはその関連も多く、私もそれで自然と学ぶようになりました。

神社を造るのに憧れる大工は多いかも知れませんが、実際はなかなか経験する場がないのです。私はラッキーでした。

片山郷司神社に納めた本殿

――そうしたら、近本さんは現場で学ばれたのでしょうか?

そうですね。あとは、休みの日にいろいろな神社仏閣を見に行ったり、本屋で専門書を購入したりして勉強しました。

――すごいですね!その探究心は、私も見習わないといけません。地元の神社も造られたのですよね。

はい、八幡神社と言います。1400年ごろからある神社だと思いますが、平成22年に建て直しました。そのとき、棟梁として仕事をさせていただきました。

――素朴な疑問ですが、神社の屋根はどうして反っているのでしょう?神社建築では、どこに注目して見たらいいのか、教えてください。

この形式は、「反り屋根」と言います。神社仏閣に多く用いられる工法です。中国から来た建築様式ですが、見た目の美しさと、大きな軒下を設けられるので、雨水や日光から建物本体を守る目的があります。

どの程度の反り角度が美しいかを見極めるのは、自分のセンスです。ちなみに、この反りは、木を無理に曲げているのではありません。幅の広い一枚の木を削って、丸み(反り)をつけていきます。このときは、直径60センチぐらいの木を使いました。

こうした木を手に入れるには、最初から目星を付けておく必要があります。少し曲がっている木が良いのですが、大きな木が原木市場に出されるときに裁断されてしまっては使えないので、山師さんにあらかじめ注文しておきます。

――へえ!そうなのですね。そうやって神社の屋根は造られているのですね。こちらも特徴的ですよね。

柱と屋根の組み合わさっている部分(赤い丸)は、「升組」と言います。柱の最上部や、軸部の上に設置し、軒桁を支える部位のことです。金物(釘・ボルト)や接着剤を使わず、木材で作られた部品を組み合わせて建物を強固にします。大きな建造物になると、いくつもの升組が豪華に組み合わさっています。升組を増やして軒先を長くすることで、雨水から本体を守る役目もします。

ちなみに、真ん中の色の違う部分(青い丸)は、建て替える前の彫り物を活かして設置しました。

――工夫を凝らされているのですね!神社だけじゃなく、お寺も造られたのですよね。

はい。こちらは、阿南市桑野町にある梅谷寺の千仏堂です。平成18年に上棟をさせていただきました。雨水から本体を守るため、また、化粧をする(見た目を派手にする)ために、軒先を長くする「二重垂木(たるき)」にしています。この工法は、ちょっと珍しいかも知れません。

伊勢神宮や東大寺などの大きくて有名な建造物を手がける宮大工と異なり、地元の神社や寺は、その土地で暮らす腕利きの大工が造っていました。そんな方々が全国にいたので、各地に神社仏閣があるわけです。

しかし、今は大工になりたいと思う人が減ってしまいました。ネジ締めの上手な方ばかりになってしまったのです。父親の時代や私の若かったときは、電気道具があまりなかったので、大工道具は自分たちで作りました。

――お話をお聞きしていると、本当に大工の仕事がお好きなのが伝わってきます。

そうですね。親の泣く顔が見たくなくて地元に戻ってきましたが、最終的に大工の仕事で良かったと思います。伝統工法を受け継いでいるという自負があります。昔のものを活かした手作り感のあるものに惹かれるのです。

大工の仕事は、10本の指を使った手作業が主体です。神社の反り屋根のように、曲がっている木も活かします。人件費もかかりますが、それ以上に価値のあるものが造れると思います。

――素晴らしいですね!私は人生において、ほぼ全て自分の意志で道(仕事)を決めてきましたが、近本さんのように自然の流れの中で、天職に出会い、その道で謙虚に学ばれたというのは、自分にない生き方ですので憧れます。大工になって大変だったことや、嬉しかったことも教えていただけますか?

大変なのは、失敗をしたら施主さんにも仲間にも迷惑をかけるので、1ミリの誤差も許されないということです。作業に入る前に木に墨付けをするのですが、そのときも確認が一番大事です。

失敗したらどうしようと、夜も眠れないこともありました。とにかく確認の繰り返しです。時間がかかってでも失敗を減らしていきます。間違えたら職人の恥だと思っています。

この仕事をして喜びを感じるのは、建前(上棟式)という晴れ舞台のときでしょうか。バラバラだった材料が一つにまとまってパズルが完成した感じです。皆に褒めていただけるのが嬉しいです。

――大工さんの仕事は、完成品が長く後に残るのが良いですね!

そうですね。今でも、自分の造った家を見に行きたいという気持ちがあります。作品として愛着があります。また、一つの仕事を完成させて信頼していただけたら、次に繋がっていきます。そういうご縁があるのも喜びです。

――話を変えます。詩吟との出会いについて、教えていただけますか?近本さんが詩吟をなさっていたので、私の舞台や、三好市山城町にある田尾城趾での奉納演奏では、唄い手としてお世話になりました!

田尾城趾での奉納演奏(2020年7月)

詩吟は、27歳ごろからやっています。もともと唄が好きだったのですが、地元に詩吟グループができたということで先輩に誘われました。何年か手ほどきを受けて、発表会に出るようになりました。私の所属する流派は「青雲流」というのですが、当時の会員数は400名ほどだったと記憶しています。今は20名ほどになりました。カラオケが普及したことも影響しているでしょうね。

右が近本さん

――近本さんのお声は個性的でとても好きです。また、深みのある唄い方は、近本さんの人生観を反映しているような気がします。

私なんか、本当にたいしたことないですよ。でも、一度始めたことは一生稽古だと思っています。

――近本さんはクラシックギターも演奏なさるのですよね。本当に唄がお好きなのですね。

ギターも若い頃に独学で始めました。明るい曲よりも、マイナーなメロディに惹かれます。コードよりも五線譜を読む方が得意です。でも、弾き語りは難しいですね。

――私にとっては三味線の方が馴染みがあるので、ギターが弾けるのは凄いなあと思います。事務所開きでは、ぜひ演奏をお願いします!楽しみにしています。ところで、近本さんのLINEでは、奥様との似顔絵が表示されて驚きました。絵も描かれるのですね!

いやいや、素人の絵です。色鉛筆で描きました。家内はデイサービスに行っているのですが、デイサービスの職員さんの似顔絵も描いたことがあるのですよ。

白い紙にマス目を作って、目と鼻の距離などを測定して描いたら、誰が描いても似るのだろうと思います。目線が一番難しいですね。黒目の向きとか。

――ええ!?図面を描くような感じで似顔絵を描くのですか!さすが職人さんです。話を変えます。これからの那賀町はどうあったらいいと思いますか?また、どんな方に那賀町に来て欲しいでしょうか?

過疎化が進行し、全体が沈んでいく中で、町を持続できるような動きのできる方に那賀町に来て欲しいです。このまま流れに任せていては、悪い方に行ってしまう気がします。

また、想いのある方が集まって、自分たちでどうにかしようというような寄り合いの場が欲しいです。他地域をうらやましがっても仕方ないことです。コロナ禍でだいぶ落ち込んでしまいましたが、今ならまだ余力があります。

あと、各自が趣味を持っていても、個人で終わらせるのはもったいないと思います。人のつながりを持った方がいいです。那賀町は、平成17年に鷲敷町・相生町・上那賀町・木沢村・木頭村が合併して出来ましたが、地区ごとの文化祭が開催されても、町全体の文化祭がありません。旧町村を分断せず、町全体でもっと活気のあることができればいいのにと思っています。それが人寄せにもなると思います。

――その通りだと思います。私も三味線という芸能にずっと携わってきて同じことを思います。近本さんの人生において、大事になさっていることを教えてください。

相手の心配事をその人の気持ちになって、その人の身になって考えることだと思います。自分も大事ですが、相手も大事です。相手の気持ちを6分、自分の気持ちを4分にすれば、人間関係も仕事もうまくいくのではないかと思います。

――ハッとするお言葉です。お金儲けばかりに走ると、相手が置き去りですね。若い方へのメッセージや、仕事をする上でのアドバイスもお願いできますでしょうか?

「ありがとう」が大事だと思います。知らん顔をするのではなく、まずは自分から挨拶です。「声かけ」は、人との交流における切符のようなもので、相手と親しくなるには、まずは挨拶だと思います。あと、手を振るだけでも、お互いに笑顔になります。

――私も、実は、オンラインでお稽古をするとき、あえて手を振ってお別れします。距離のある画面越しだからこそ、こういうのが大事だと思ってきましたので、とても共感いたします。今日は、本当に勉強になりました。インタビューを通じて、私自身も学ばせていただきました。本当にありがとうございました!

常に探究心を。謙虚な気持ちで大工の道を歩む。◆ 近本茂(大工)

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